「乃美君、ゴメン」 『隆景様』 笑顔の宗勝がちらつく。 涙は止め処なく零れ落ち、宗勝の遺した着物を濡らした。女のようだと思われてもいい。ただただ申し訳なさと、悲しみだけが隆景を支配していた。 隆元も元春も隆景を置いて逝った。そして宗勝も。 「ゴメン」 朝鮮から帰って1週間。毎日泣き腫らして暮らした。昼間は気丈に振る舞っていたが、夜になると毎晩のように宗勝の優しい声が胸に響き、涙が止まらなかった。その所為で夜は殆ど眠れず、目の下の隈は濃さを増してゆくばかり。理由こそ知らないものの、家臣たちが心配して昼寝を勧めるが、どうも横になってもすぐに魘され目を覚ましてしまうか、眠れないかで結局寝不足が解消されることはなかった。 『隆景様、ごゆっくりお休みなされませ』 耳にはっきりと宗勝の声が響く。死してなお、隆景を心配してくれる宗勝を思うと、更に涙が止まらなかった。 「私が連れて行かなければ良かった!無理にでも止めていれば良かった!!」 握り締めた拳から血が出るほどに畳を叩きつける。今は誰もいない。どうしようもない心のやり場をどうにかするには、自分が傷付くしかなかった。 宗勝を日本へ帰す時、最後に握った手の温もりが薄れていく。帰ったらまた笑って会えると思っていた。幸せな時間はずっと続くと思っていた。繋いでいた手が離れていく。隆景はまだ、宗勝をこんなにも求めていると言うのに。 ジンジンと痺れる手にも構わず、何度も畳を叩きつけた。 「どうして皆私を置いて逝く!どうして…私ばかり取り残されなければならない…!」 吐き捨てるように言った後、血の付いた畳を茫然と眺めた。 肩にふわりと何かが掛かるような感触に、はたと我に返る。それは全くの気の所為で、しかしはっきりと宗勝の声が聞こえた。 『無理は禁物と言ったではありませんか』 「宗、勝…」 振り返るとそこには宗勝がいて、膝立ちになり蹲る隆景の肩を抱いた。 起き上がると宗勝の手は隆景から離れ、手を伸ばそうとする隆景を視線を離さないままやんわりと諌めた。 『一家臣の死で小早川家を絶やしてはなりませぬ、隆景様』 やっぱり乃美君は死んだんだ。 本人から告げられるどうしようもない事実。未だ受け入れられない事実。絶対的な、死。 「………ゴメン」 呟くと、宗勝は静かに応えた。 『私が勝手に付いて行ったのです、隆景様が気に病むことなど、一つもないのですよ』 「ゴメン!宗勝、ゴメンなさい…!」 隆景は只管に謝り続け、まだ陽も高いというのに恥も外聞も捨ててわんわん泣き続けた。 時は流れ、慶長2年6月12日。 『隆景様』 「……乃美、君?」 『参りましょう、65年間、お疲れさまでした』 あぁ、私も死ぬんだ。 『怖いですか?死ぬのが』 この歳になって死ぬのなんて怖くないよ。 隆景は静かに目を閉じた。隣ではたまたま隆景を訪ねていた同じく病床に臥せっていた弟の元清がそれを見て目を見張った。 「景兄上…?」 おやすみ、清ちゃん… 『隆景様』 宗勝が手を差し出す。それにそっと手を伸ばし、差し出された手を取る。不思議と怖くはなかった。元就ほど長くは生きなかったが、隆景はそれで十分だった。誰よりも愛しい、宗勝が迎えに来てくれて、大切な弟が看取ってくれるのだから。 もう、十分生きたよ。ありがとう、乃美君。 涙が一筋、隆景の頬を伝い落ちた。それは歓喜の涙だったのかもしれない。 茫然と眺めていた元清が慌てて起き上がり、隆景の家臣を呼ぶ。大声を出して血を吐いた。 自分はこんなに安らかに逝けるというのに、元清の苦しんでいる姿を遠目に見て申し訳ない気持ちになった。 『参りますよ』 うん。 隆景の涙が滴り布団を湿らす。迎えに来てくれた宗勝は、若い頃のままの姿で、自分の皺枯れていたはずの手も若々しく、優しく抱きしめられ幸せの内にその生涯を閉じた。 戻る |